「百万両宝の入舩」は紀伊国屋文左衛門の生涯を語る演目であるが、本書の特徴は生命保険を広告する目的の文章が組み込まれた点である。発行元の八千代出版社は八千代生命保険内に事務所を構えており(注一)、八千代生命保険の関連会社といえる。八千代生命保険は、一九一三(大正二)年に設立、小原達明が中心となって経営、派手な広告で知られ、保険業以外に出版・映画にも手を広げるものの、乱脈な経営の末、一九三〇(昭和五)年に解散した(注二)。

図一
図二

 本書は、表紙(図一)、口絵、本文、八千代生命の広告(図二)で構成されている。

 本文を見ていこう。第一席「遺産は借金ばかり」は「雲は天に在り牡丹餅は棚に在る、こんな調子で世の中が渡れたら結構だが、昔も今も働いて喰ふのが人間の勤めだ。能く働いて能く喰って能く貯める。其の貯蓄にも種々の手段があります。銀行預金、郵便貯金、乃至は株券を買う、社債に応ずる。」「其中に生命保険というのがある。貯金の手段としては最も有利なもので、契約年限が来たら払い戻して呉れる・・・」という口上が続いた後、紀伊国屋文左衛門の生涯へと続いていく。紀文の生涯をとじたところで「働いて、節約して、生命保険にでも入って置けば大丈夫だと南海夢楽が牡丹餅大の印行を捺してお薦め申し上げます」で終わる。その後三ページにわたって、八千代生命の事業やその考えが紹介される。発行の目的は「本書の如き通俗講談の形式を以て、趣味と実益とを併せ兼ねた娯楽の提供」とあり、趣味は講談、実益は保険の案内を指していると考える。

 なお、八千代生命保険は一九二五(大正一四)年に狂句、都都逸、一口噺、童話など保険思想の普及を図る保険文芸を懸賞付きで募集しており(注三)、様々な文芸形式で、同社の保険を広げる広告活動をしていたようだ。

 作者の南海夢楽は、別名、安岡夢郷で(注四)、現代小説は安岡夢郷名義、時代物は南海夢楽名義で『文藝倶楽部』『講談雑誌』に渡辺黙禅、田村西男、森暁紅らと並んで執筆していた(注五)。

 南海夢楽は、𠮷沢コレクション所蔵の八千代出版の講談『塩原多助出世鑑』一九二五(大正十四)年、八千代生命発行の講談『幕末秘史桜吹雪』八千代生命保険株式会社、一九二六(大正十五)年(非売品)』も執筆しており、ここからはもう少し南海夢楽について触れたい。

 南海夢楽は、関東大震災の頃は、東京毎日新聞の記者をしていたようであり(注六)、同新聞はこの時期、八千代生命保険の小原達明が所有している(注七)。これは、本書の成立を考慮すべき情報として考え、ここにあげた。南海夢楽は、このころ起きた新しい文学の流れである大衆文学の興隆により、世代交代の波を受けて執筆の場を減らしていったようである(注八)。先に挙げた『幕末秘史桜吹雪』のはしがきで編者(奥付の編集兼発行人の黒川寿雄か?)の言葉ではあるが、「最近は「大衆文芸」が非常に勃興して来ました。大衆文芸とは如何なるものかと開き直ると、ずいぶんむづかしい解釈も下されるでありましょうが、ここでは、在来の講談に対し、それを文芸的に取り扱ったものと謂う位の意味に解したいと思うのであります。(中略)本編は南海夢楽氏が、材を幕末乱離の事件と世相とに取り、当時の世態人情を語りながら、新しい講談の行き方を、巧みに示そうとしたものであります。講談としての興味を横溢していることは勿論、史実を尊重しながら、固苦しくならず、実に夢楽氏最近の傑作であります」とあり、南海夢楽が大衆文学をどのように見ていたかわかる文章と言えよう。

 南海夢楽は他に「実話佐賀の怪猫」『京城日報』一九二六年四月六日〜九月二十八日(注九)、南海夢楽編『日蓮聖人』春江堂、一九二二(大正一一)年(国立国会図書館デジタルコレクションで公開)などがある。

 また、安岡夢郷をNDLオンラインで著者名検索すると『海坊主お竜』岡本偉郷館一九〇二(明治三五)年、『因果家族』大川屋書店一九一七(大正六)年、など二十五件(注十)がヒットする。

  • 注一 『全国書籍商組合員名簿大正十三年一月現在』九コマ、国立国会図書館デジタルコレクションで公開(ログインなしで閲覧可能)
  • 注二 小川功「八千代生命の経営破綻と投資政策―投融資先の分析を中心として―」『保険学雑誌』五六六、一九九九年
  • 注三 八千代生命広告「懸賞保険文藝入選発表」『東京朝日新聞』一九二五年五月二日付夕刊四面
  • 注四 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービスの南海夢楽(一八八二―一九四五)の項の別名に安岡夢郷がある。
  • 注五 桜井均『奈落の作者』文治堂書店、一九七八年、二十三~二十四頁
  • 注六 前掲注五、三十七頁。ただしこの箇所は「安岡夢卿」の名義になっており、夢郷の別表記としてこの項を進めている。
  • 注七 内川芳美『新聞史話』社会思想社、一九六七年、一七一~一七二頁
  • 注八 前掲注五、二十四~二十五頁
  • 注九 嚴基權「京城日報」における日本語文学 : 文芸欄・連載小説の変遷に関する実証的研究」九州大学博士論文(比較社会文化)三〇ページ
  • 注十 二〇二二年十二月三十一日確認

※本文の引用にあたっては新字に統一しルビを外した。

(中村健)